このところ、「Big Boss 新庄監督」の登場で野球界のみならず、世の中に新風を吹き込んでくれているように思います。
「誰もやったことのないことをやりたい」「常識とは違う目線でものを見る」「それぞれの選手の持ち味・個性を大切にする」「当たり前は面白くない」。。。。そんな言葉の数々を連発するなかでも
私が注目している彼の「本質的な真面目さ」を感じる側面があります。
「重要な局面で緊張しませんか」という趣旨の質問をされたときに、
「全然緊張なんてしたことがありません」 「なぜなら、その場面でちゃんと結果が出るように、そのずっと前から結果を出すための周到な準備をして、今目の前にある状況はすべて想定済みだから、どんなことが起こっても対処できることを自分自身がわかっているから」だと。
このような発言にこそ、彼が監督としてきっと何かを成し遂げてくれるのではないかという期待感の根本があるのだろうと感じます。
「結果」というものは、偶然から生まれるものではなく、
「結果への切望・覚悟」から始まり、「結果を出すための手段や方法を試行錯誤」し、「実際にそれを行い」「修正や調整を行い」周到な事前準備を万全にした上にも、偶発的な変化までも想定して本番に臨むという「執念」や「こだわり」までも含めたものが前提となって初めて生まれるものだと思います。
ゴルフでの「ホールインワン」もまた同様ですね。
神業のようなことも、ちゃんとホールインする目的意識と行動を意図的にするからこそできている「必然」なのであって、「偶然」とはかけ離れた実力そのものですね。
こうした「準備周到な段取りをして意図的に目的達成をする」という意志を持った行動を子供時代から繰り返し実践していけば、きっと力強く、頼もしい存在となって人生を歩いて行ってくれることでしょう。
人間にとって「楽しいこと」をやることは喜びですし、「つまらないことをやることは苦痛」と感じてしまうことは自然の成り行きですから、「嫌なものは嫌」と割り切っている人も多いかと思います。
それはそれで人それぞれの考えですから仕方ないことだとして、
好き嫌いに関わらず、それを避けることのできない環境があることもまた事実ですね。
例えば、学生にとっての勉強や試験は、本人の感情や意志に関わらず、学生である間はずっと関わっていなくてはならない宿命のようなものです。仕事もまたしかり。
そうではあっても、限られた人生の一時期の中で、以前は苦手であったものを今では得意に変えている人もいます。
ただ「分かる」「できる」ではなくて「得意」という感情を持てるまでになるからには、どの時点かで以前嫌いであったものが好きになる瞬間や、好きになったものが楽しくて仕方ないと思える瞬間を経験した経緯があったに違いありません。
文頭にも触れましたように、普通の感覚であれば、「嫌いなものは嫌い」で終わってしまっても不思議ではないことを「できる」を通り越して「得意」つまり「楽しい」に変化させた「原因」を作り出して一定の期間「嫌でも取り組んだ時期」「分かり始めた時期」「分かることが楽しくなってきた時期」などを経由したからこそ、「楽しい」「得意だ」と感じる今に至ったはずですね。
単純に損か得かと考えただけでも、「苦痛」であったものが「楽しい」に変えられることは絶対に「得」であるわけで、損得は別にしても、「楽しい」ことに囲まれて生きることは幸せなことです。
このことは、子供時代に「食わず嫌い」であった食べ物が大人になって食べざるを得ない環境の中で或いは興味本位で食べてみたら、思いもよらずおいしいと感じてむしろ「好物」になってしまう経験なども多くの人が経験済みですね。
何事に対してもそうですが、「どうせやるなら楽しくやりたい」と思う気持ちをいろんなことに対して注いでみることは人生を豊かにすることにつながります。
好きなものや楽しく感じるものが多いほど、その人の幸福度は高いわけですから、どんなことにも楽しさを見出そうと心がける習慣をつけた方が良いに決まっています。
楽しむために一番必要なことは、「熱中すること」だろうと思います。
言葉を変えると、「魂を注ぎ込んでそのことに夢中になる」ことができる人は、人生を楽しむこともできれば、幸せにもなれるはずですね。
手始めに、何かひとつのことに夢中になってみましょう!
その先にはきっと「楽しさ」が待っています。
私たちが子供時代から思春期にかけてやってきた勉強も大人になって必要を感じてやった勉強(独学)も、
結局のところ、「解決したいことに対してどう対処すれば解決できるか」を見つけ出す訓練をしていたのだと思います。
もちろん、子供時代にそれを「訓練」などと思って勉強をした記憶は誰もないでしょうけど。
「訓練」である限りは、「必要な時に活かす意志」をもって取り組んだ方が、本当に活かすべき時に訓練したことが活かせるのは当然ですね。
せっかく私たちが大人であるわけですから、「意志を持っていない子供」に対しても、「意志をもって取り組んだ方が未来のその子の生き方へのプラスのヒントとなる」と信じて導くことはできます。
例えば、「壊れたから捨てる」ではなくて「壊れても修理して使う」をいつも心掛けていれば、「どうすれば直せるか」を考える習慣ができます。
それに伴って、方法を見つけ出すための「的確な検索力」が鍛えられます。
方法が見つかったとしても、大概の場合は一発解決とはいきません。
更なる「工夫」が必要となります。
そうすると、「根気」無くしてその向こうにはたどり着きません。
当然、何度失敗しても「だとしたら、ここを変えてみよう」と工夫は続きます。
「対処の仕方を見つけ出したいという意志」がある限り、「探求心」「検索力」「根気強さ」「工夫を重ねる創造力」「結果をひねり出すまであきらめない心」など
訓練から得られるものは沢山あります。
そして、そのプロセス自体が、彼らが大人になった時に遭遇するに違いない、人生に関わる大問題や究極の危機に直面したときにこそ、活かされます。
「勉強は生き抜くための訓練」なのですから、絶えず変化する環境や状況にも、「今、目の前にある出来事を解決するための的確な方法を見つけだし、結果として解決する」意志を持ち続けることが大切ですね。
「集中できない」という言葉をよく耳にしますね。
その言葉の真意は、どちらかといえば、「目の前のことに全力を注ぐ」べき時にそれを行っていない「言い訳」として使われていることが多いように思います。
私の思うに、「できる」「できない」を語るその時間がもったいないと。
目的をもって何かに取り組む以上は、結果としてやり遂げる以外の結末はないわけで、
やり遂げるために必要なことは手元に手段がなければ探してきてでも結果に結びつける覚悟があって当たり前ですね。
目的意識も覚悟もその主体は自分自身にあるのですから、独立心をもって自らの意志で行動をする人にとっては、完結していない途中経過を誰かにわかってもらう必要すらないですし、「私は自分をコントロールできません」と口にするなんてことは恥ずかしいことです。
ところで、「集中する」という言葉は、なんとなくのイメージはわかっていても具体的にはどう行動するのかがわからないまま使っている人も多いはずです。
特に子供たちに対しては、もっと明確に行動を起こせるように伝えるべきです。
一番わかりやすい集中を促す伝え方は、「スピードを上げなさい」です。
例を挙げると、「早口言葉」をどんどんスピードを上げていくと体も前のめりとなり、声も大きくなり、口だけでなく体中が機敏な動きになります。
当然、意識も一点集中した状態になります。
同じ時間の中でスピードが上がれば、回数も激増します。
繰り返す回数が増えるのですから当然脳の反応も体の反応も機敏となり身も心も引き締まります。
そのような状態で事に当たれば、行動の質が高まるのは当然ですし、絶対数の増加(量の増加)はさらに質を上げてくれます。
「集中しなさい」という抽象的なことを言われるよりも、「もっともっとスピードをあげなさい」と背中を押してあげたら、その瞬間から行動が劇的に変わります。
つまり、一瞬にして行動を劇的に変える伝え方をしてこそ目に見える変化が起こるのであって、お経のように「集中しなさい」の言葉を投げているだけでは「集中できない」という言い訳の言葉を投げ返して何も行動をしない子供を放置することになってしまいます。
「スピードを上げなさい」「もっとスピードを上げなさい」と子供に促すことのもう一つの効果は、その行動の結果どうなったかを子供自身が感じることです。
賢い子であれば、これに限らず他のことにもこれは使える!!と気づくはずです。
実感を持った経験こそがその子を自立させてくれるのです。
世の中の情勢は絶えず変化します。
そのこと自体は、現代社会も平安時代も同様のはずですが、
大きな違いは「変化の速さ」ですね。
「朝令暮改」は、方針が一定していないことへの批判的な言葉として使われますが、
現代社会では、絶えず変化し続ける状況に対してスピード感をもって即座に対処しなければ、チャンスを逸したり、損害を被ったりしかねません。
「臨機応変」な対処が必要です。
そのためには、状況判断をして今どうすればいいかの決断をする習慣をつけておくことが大切ですね。
そして最も大切なことは、その習慣を子供時代からつけておくことです。
経験のない子供が最初からそんなことに気付くはずもありませんから、それを気付かせたり、習慣をつけてあげることは、やはり、人生経験を踏んだ大人の役割です。
「判断して決断する習慣」の第一歩は、◎なのかXなのかをはっきりさせる覚悟をすることです。
◎なのかXなのかを尋ねられて▲をいつも答えることの意味は、「決断から逃げている」
「判断していない」のですから、そんな悪習慣からは即座に脱却して、いつも決断し続ける行動習慣へと劇的に変えましょう。
劇的な変化とは、明日ではなく今日から動き出すことです。
前向きな変化を楽しみましょう。
「素質がある」と聞くと「持って生まれた能力」のように感じますが、
何の努力もせずに物事を成し遂げられる人などめったにいないはずです。
それよりも、むしろ、「あきらめない」基本行動が習慣になっていることの方が遥に大切なことだと思います。
あきらめない気持ちがあっても、それを行動として実践しなければ何をやっても思いが形になりませんね。
そうなると、やっても楽しくないから「や~~めた」という短絡的逃避に向かうことはあっても、もっともっと突き詰めていきたいという探求心や成長欲がその影を失うでしょう。
子供時代に初めて自転車に乗れた日のことは、はるか昔の出来事となった今でもその日その時の光景がそのまま映像となって甦ります。
乗れた瞬間の喜びを味わうことのできるのは、何度も転んでは立ち上がり、やっとできそうになってもまた転びを繰り返したからですね。
魚釣りをする人は釣れた瞬間の何十倍もの時間をどうすれば釣れるかを工夫しながら、えさを変え、場所を変え、やり方を変えてその向こうにあるに違いない釣れる瞬間の手応えを楽しみにしてその困難な時を過ごすことをむしろ喜びと感じているに違いありません。
「困難」と「喜び」は表裏一体、同じことの裏と表なのですから、実際には困難があってこその喜びなんですよね。
そう考えたら、何の苦労もなければ、喜びもないわけで、その喜びの瞬間も味わうことなく途中であきらめてやめてしまうなどという「もったいないこと」はとてもできません。
多少の困難はあってあたりまえ、少々の困難に直面してもその困難の向こうにある喜びを味わおうと困難に立ち向かい、克服してしまうことを楽しむひとは、どんな道を歩いていてもその道を極めることができるでしょう。
あきらめるなんてもったいない!! 乗り越えることを楽しみましょう!!
東京オリンピックの開催予定時期が近付くにつれ、「やるべき論」「やめるべき論」が世の中を駆け巡っています。
個人的には、「やるために必要な最善の段取りをしてやりきる」ということが大切なことだと考えています。
「否定」で頭の中がいっぱいになると、「やめてしまう」理由をいろいろと考え巡らせて「阻止」「後戻り」「反対」ということが活動の主目的となってしまい、人間にとってとても大切な「向上心」が影をひそめてしまうように思います。
あえて言えば、「やめる」ではなく、「こうすればできる」という建設的な案を生み出したり社会に共感を求める方が何事も「より良い状態」へと前進していくだろうと思うのです。
死に物狂いの努力を重ねてやっと手にすることのできた出場権を持った選手たちにとっても、人生をかけた最高の場であってほしいその場の存在をこの時期に来てもなお、実在する場なのかの確信さえ持てないことは、さぞかし不安にちがいありません。
最善を尽くそうと努力を重ねている選手たちに最善を尽くす場を与えることも、それを見守る観客が将来を生き抜くための大きな感動や勇気を手にすることも、社会という大きな渦が明るい方向に向かって後押ししてこそ可能になります。
教室という小さな社会を見守る立場である私にとって、最善を尽くすことの可能な空気感をいつも教室全体にみなぎらせていたいと思っています。
過ぎ去った過去の出来事は、今になって変えることができないのは当然です。
そして、今現在もまた、過去の歴史の上に立っていることも事実です。
ところが、今、この瞬間以降のことは、すべて自分で決めさえすれば、自分の思う方向に向かうことはできます。
つまり、「未来は作り出せる」ということですね。
そのためには、「こんな風になればいいな!!」という希望や期待や切望というような、心の底からそうであってほしい到達点を持つことが何よりも大切です。
「ただ思う」ことよりも「期待」や「切望」の方が良いのは、
「そうであってほしい気持ち」がより強いからです。
それさえあれば、あとは、「決してあきらめずにそうあってほしい行動を続けること」だけですね。
「あきらめずに一点を見つめ続け、目指し続ける」ことが、これから起こる未来を自分の思う方向にしていく最速の道なんですよね!!
やりたいことをやっていくわけですから、「楽しみ」ではあっても「苦しみ」ではありません。
楽しみながら希望や期待に向かって前進を続けていきましょう!!
大都市圏だけでなく、地方都市も含めて変異型のコロナウイルス感染が急拡大している昨今です。
国内での医療従事者や高齢者からのワクチン接種も少しずつであっても進み始めていますから、
基本的な予防は継続しながらも、やはり、積極的にワクチン接種をして立ち向かっていくことはとても大切なことだと思います。
最近に限りませんが、急にネットにつながらなくなったとか、音が出なくなったとか、メールの送受信ができなくなったなどという相談をよくいただきます。
結果として大概の場合は、再起動したりウインドウズの更新をちゃんとしてあげるだけでも解消することがほとんどです。
尋ねてみると、「更新して何かあったら怖いから更新はしていない」ということをよく聞きます。
「何が怖いから?」と尋ねてみると、「なんだかわからないけど何かあるかもしれないから怖い」。。。。
確かに、真っ暗闇の暗黒の世界で何も見えないと恐怖心を抱くのは人間に限らず生物の本能に違いありません。
その一方で、よりよく生きていきたいという向上心もまた本能的に備わった成長や進化のため潜在能力ですね。
用心深く石橋をたたいてから渡ることも大事なことですが、その結果、石橋を叩き壊して渡れなくしてしまうと、それは本末転倒です。
物事を判断するための「ものさし」を自分なりに心に持って、何かに出くわすたびに「ちゃんと判断していく」
そして、その判断したことを「行動」することで、一歩前に前進させることが大切です。
また、「怖い」ことを恐れすぎるよりは、「こんな風になれば楽しそうだ、快適になる、楽しみだ!」という気持ちで
そうした「判断の物差し」を心に抱いていれば、判断したことは決して悪い方向には向かわないと思います。
是非、「明るく、元気で、前向きに!」物事をとらえ、目の前の出来事に積極的に立ち向かっていく姿勢を持ちましょうね。
そうすれば、大概のことは、いい方向に向かいます。
春の新学期が始まり、これまでとは違う教室、新しいクラスメート、新しい教科書、
何もかもが新しくなるこの時期。
子供たちにとっては、はっきりとはわからないけれども、何か明るい兆しのようなものを
自然と感じているでしょうし、その何かに「期待」を膨らませていることでしょう。
「希望」や「期待」を感じられるということは、今が平和であるからこそできるとも言えますし、
そうでないからこそ心の底から今から先の明るい変化を切望している場合もあるでしょう。
どちらの場合も、「明るい光」を切望していることには変わりはありませんね。
つまり、「現状よりももっと良い状態に変化したい」という想いなのでしょう。
「変化」というものは、何も働きかけなければ起こりえないものです。
「変化」には、「変化したいという切望」がまず自分の心に生まれることが必要です。
心に「変化への切望」が生まれると、それを実現したいと望めば当然「行動」を起こすでしょう。
そうすると、行動したことによって、自分の立っている場所が変わり
新学期という「新鮮な雰囲気」が醸し出してくれる明るい未来への期待感のあるこの時期は、
これまで見てきた風景とは違う風景を見ることのできる絶好のチャンスかもしれません。
心の片隅に、「このことをやってみたい」と思うものが一つでもあれば、
まずは、「最初の一歩」を踏み出してみることが
これまでとは違う新しい風景に通じる道の上に立つことだろうと思います。
春の新学期が始まり、これまでとは違う教室、新しいクラスメート、新しい教科書、
何もかもが新しくなるこの時期。
子供たちにとっては、はっきりとはわからないけれども、何か明るい兆しのようなものを
自然と感じているでしょうし、その何かに「期待」を膨らませていることでしょう。
「希望」や「期待」を感じられるということは、今が平和であるからこそできるとも言えますし、
そうでないからこそ心の底から今から先の明るい変化を切望している場合もあるでしょう。
どちらの場合も、「明るい光」を切望していることには変わりはありませんね。
つまり、「現状よりももっと良い状態に変化したい」という想いなのでしょう。
「変化」というものは、何も働きかけなければ起こりえないものです。
「変化」には、「変化したいという切望」がまず自分の心に生まれることが必要です。
心に「変化への切望」が生まれると、それを実現したいと望めば当然「行動」を起こすでしょう。
そうすると、行動したことによって、自分の立っている場所が変わりますから、そこから見る風景もまた
以前見ていた風景とは違う風景が見えるはずです。
新学期という「新鮮な雰囲気」が醸し出してくれる明るい未来への期待感のあるこの時期は、
これまで見てきた風景とは違う風景を見ることのできる絶好のチャンスかもしれません。
心の片隅に、「このことをやってみたい」と思うものが一つでもあれば、
まずは、「最初の一歩」を踏み出してみることが
これまでとは違う新しい風景に通じる道の上に立つことだろうと思います。
パソコン、スマートフォン、iPad に代表されるタブレットなど、便利な道具がいろいろとあります。
どれも便利さを追求して開発されたものですから、便利であるにはちがいありませんが、どんなものにも一長一短があるものです。
キーボードでの入力をしなくても、喋りかけるだけで音声識別をしてくれる時代になっていますが、便利な反面、誤認識も多く、スムースで正確迅速な入力には、まだまだキーボードの必要性は消えていないようにも思います。
使うための手段はともかく、大切にしたいことは、「自分のやりたいと思うことをやって楽しむ」ということでしょう。
目的があれば、人は、そこへ近づこうとしますし、そうなるように努力もします。
そして、最初は目的達成のために必要な手段に過ぎなかったことでも、積み重ねていく中で、少しずつできるようになること自体が楽しく感じられるようになるものです。
青年期には、苦労は買ってでもした方がいいのかもしれませんが、
大人は、むしろ、楽しみながら面白がってやることの方が、はるかに大切です。
初めて教室に体験に来られた方にも、長く続けていらっしゃる方にも、この「楽しむ」ということを実体験してもらうことが、実は私たちの楽しみでもあります。
ワクワクしながら、それを探しにおいでください。